昭和46年02月23日 月例祭
(途中から)
願いでもありまた神様の、また願いでもある。それは私共人間氏子が日々、安心の大みかげを蒙り、安心の生活をさせて頂くと言う事にあるのです。困った事が起きてきた。難儀な問題が起きてきた。それを神様にお願いをして、おかげを頂いていくという生活。ね、だから、私共はいつどんな事があっても、神様を頂いておる、親先生の御取次を頂けれる。だから安心だと。
まあ皆さんここまではよく言いますですね。もういよいよん時には親先生がござるから、いよいよん時には神様を頂いておるからと、まあいう風に申します。けれどもそういう例えば安心は、いわばあまりもの安心だと思うですね、本当の安心とはそげな安心ではない。本当の、私安心というのは、もうあの氏子は大丈夫と神様から安心してもらえれる氏子、神様が安心して下さるだけの信者氏子に御取立てを頂いてから初めて心の中に安らぎ、いわば安心のおかげを頂いておるというならば。
それは真の安心と言う事になりましょう。ですからぎりぎりのところ、そういう信心をお互い練り出してもらうと言う事。そこにどう言う様な生き方と、信心の姿勢というものが、おかれなければならないかと言う事になるのです。これはちょっと名前を失念しましたが、ある上方の、まあ偉い御徳を受けられた先生の御言葉なんですけれど、信者がね、どのような難儀な問題でも、先生困った事が起こりました、どうぞお願い致しますというて真剣に御参りをしてくるならば安心じゃというわけですね。
信者がいわば、難儀な問題が起こりましたと、どうぞ先生、御願い致しますとお願いして、御願いに来る。そして本気で今までみなかった真剣さがでてくる。神様にすがるという事もお参りすると言う事も、御用の上にも、おすがりをさせてもらうと言う事。氏子が一心におすがりをする姿勢をとった時には、もう安心じゃと。取次の者でん、もうそう心配する事はいらん。今朝から朝の御祈念に参ってみえた方があるんです。寒修行中朝参りしておられた。それから日参りを遠方から連れて来られおった。
今朝御参りをしとるのを見おってから、まあ久しぶりに参ってみえていろいろと、非常にこの方は、その求める心がまあ旺盛というでしょうかね。非常にそのまあ私の話に魅力を感じて下さっておるわけなんですね、まあそのお話しを聞くのが楽しみで参ってみえる。今日お届けをされますのに、だから今日はまあゆっくりいいでしょう、って言ったらいいえ、今日はゆっくりしとくわけにはいきません。もう九時半までに銀行に約束があります。これこれの金額を作らないと、いわば不渡りになります。
あなたこっから通いなさりゃあもう九時、やがて(?)遠いですからね。まあそげんあせらんでゆっくりお話しでもしていきなさい。いいえ今日はそげなわけにはいかんけん。それでもやはりみんなが朝の、朝の御取次を頂きおわるまで自動車の中におられてから、やはり心配になるとみえて、お連れの方と一緒にここへ出てみえられました。その方を導いた方が、〇〇さんもうそげん時には神様の前でバンザイすることですよっち言わっしゃった。もうその時なんかにどうもしようのないとでしょうが。
昨日も遅うまでそのことにかかってみた。あっちもこっちもあたってみたけれどどうにもできない。もう今朝あんたどうするですか。あそこに半分ばっかり、当てがあったばってん、それも夕べ遅く断ってきた。ならどうにもできないじゃないですか。それでも今日にも朝参りをさせて頂いてお願いをしようと言う事で、みえられたわけです。それでその律儀な方が、その、車の中におらっしゃった。○○さん、そげん時にはもう、神様の前にバンザイするが一番ええですよっち。
先生神様の前にバンザイするっちゃあどう言う事でしょうかっち言われる。みなさんどうですか。分かりますか。神様の前にバンザイする。無条件降伏です。神様の前にもう無条件で降伏する事。無条件で神様の前にひれ伏して、すがって任せる以外にはないのだ。これは私その人間的に、さあ帰られてから、もうそのしかも九時半の約束がぎりぎり九時半までだという事であったらしい。そこで私はなら神様の前に無条件降伏と言う事を、まあいろいろ話した。
いうならば自分がいよいよ、先ほど久富さんが前講に、話しておられましたように、いわゆる我無力である。障子一重がままならぬ人の身であるという自覚。もう私はどうにもできません。神様、どうぞよろしくお願いしますとどん腹すえる他にないのだ。もうそうする他に道はないのだもの。朝の御祈念に参ってきて、みんなで御届け終わって帰ってしまう。私が御届け終わるのが九時です。
そのちょっと前ですから、もうどうするところでバタバタする、だからもうバタバタせずにね、神様の前に無条件、いわばそんならどんな恥ずかしい事でも何でも神様にお願いしていいですかと、お願いなさらにゃいけん。もう願ってすがって任せにゃいけん。まあその事が分かった分かられたか、分かられないか知らんけれどね、先生大丈夫でしょうか。そりゃそりゃ大丈夫かどうか分かるもんか。分からんばってんがまあまかするしか、お縋りする他にないじゃないか。
だから今朝の場合その方、本当に神様の前に無条件降伏ができたか、神様の前にバンザイができたか分からんけれども、とにかくどうにも仕方がないから、今まで親先生にそういう事もお届けした事もなかった事をいろいろとお届けをして、難儀その問題を御届けして願うて帰られた。願う時にすぱぁっとね、あのレンコンの大きいのをはすに切るところを頂いた。ちょっとはすっぱだけどね。
ちょっときざだけどね。はあおかげ頂くなと思った。だからとにかくね、おかげを頂きますよと、私は何回もそげん言うたばってん、さあ親先生がおかげ頂きますっち言わしゃったばってん、安心がいかん。まだ信心が若いですから。それからいわば、神様がまあいうならばレンコン食うてくださるようです。いうなら神様の前に無条件降伏をした真似をした。いうならまあちょいと、いうならばまあ、まあ本当の事が分からん。無条件降伏とはどう言う事か分からんのだけれどです。
とにかくどうにも仕様がないから、神様お願いしますと手を上げた。その事に対してです、神様がははあ、いわばレンコン食うて下さるなと思うた。それから帰られてまもなくすぐ電話がかかった。上野先生が御取次された。おかげを頂いたから御礼申し上げて下さいという、まあ、どういう事でおかげ受けたか、その今日もまだ聞きません。そこにその導いた方が言うてます。その導いた方は、今日又ある事で奥さんを連れてから、先程参ってきました。その方とは別の事です。
そしてその方が言うとるのに、もういわばここの長年の信心を頂いとりますから、もうとにかくね、とにかくお母さんお任せする他はないぞと、俺達も任せに任せ抜いてから今日までおかげ受けてきているのだから、お母さんここで、御届けしとる横で、もうお任せする他にはなかろうがというて、言うて聞かしとりました。御理解いただいて、その気になって帰らして頂いて。だからそのお任せができると言う事。これはなかなか容易な事ではないのですよ。なかなかできません。
けれどもどうにも仕方がないから任せると言った様な所から入らせて頂いて、任せると言う事の有り難さという事が段々分かってくる。だか、その方言う事がね、いよいよん時には親先生がござるから、神様を日頃頂いとるから、いよいよん時には神様といわれると、こう言うわけなんです。だからその程度の安心とは、しかし神様は安心して下さらない。そこまででも、まあ有り難いですよね。けれどもそれはまあ、ここでいう人はみんな神様というよりむしろ親先生、親先生がござるからと言う。
先日もいろいろ考えさせてもらいよったら、本当におかげを頂いとる、こういう難儀の中におかげを受けておるけれども、親先生に御取次を頂いてお願いをしていくから、安心しておれれるのだと、それからもう本気で親先生が一日でも長生きして頂くようにと思いましたと言うて、それから親先生の祈りをなさっとられる、毎日。だからなら私がコロッとまいってしまったっちゅうたら、もう安心は私の死ぬ事と一緒にどこへか薄いものになっていったり、消えていったりするわけです。
だからそれでは神様が安心して下さらないと言う事が分かるでしょ。だからそういう、親先生がおっていただくから安心だというて、おられる、親先生がおる間にね、親先生がおられんでも、青年会の方達、松栄会のが言われるように、それこそ親先生がもういつ死になさったっちゃ、僕だん安心しとるっち言う。いやそりゃあもう大変なおかげ頂いとるなあちゅうたこつ。先生が今ころっと逝かっしゃたちゃ、僕だん何とか言いよったね。その、たいへんショックを感じないちゅうた。
若先生がござるから。というくらいに、そこに信ずる人を持っておると言う事が有り難い。けれどもそんなら若先生がいつコロッていくか分からん。ですからねどうでもそうではない、信心を頂いておると言う事がです、いつも自分の心の中に安心のおかげとして頂けておる、いうならば神様が安心してくださる氏子、あの氏子はといわば神様が信じて下さる氏子にならしていただく事に本気にならなければいけない。それはね自分たちの心の上に安心になってかえってくる。
神様のご安心がこちらの心の中に安心になって響きかえってくる。そういうおかげを頂かなければならんのです。そこでです、そういう信心とはどういう信心であろうか。先ほど久富さんが、お話をいろいろお話をなさっておられる事の中に、この頃はおかげを頂いて修行の有り難さが分かってまいりましたと、その修行が楽しゅうなってまいりましたと言うておられます。この修行の楽しさが分かり、その修行にいつも姿勢を向けておるならね、まず安心ですね、神様も。
先ほどね(?)が言わっしゃったという、氏子がどんな難儀な問題を持ってきても、先生お願いいたしますと言うてお願いにきて、それから信心の姿勢を変えて一心にすがる姿勢を見せるならば、もうその事は心配はいらんという。と言われるほどですから、そんなら、私共の信心修行というものがです、修行の楽しさ修行の有り難さが分かってきたというならば、これはまあ神様がま安心して下さる。
お参りせにゃん事は分かっとるけれども、修行ばっかりはこりゃもう自分のね、心の中からこう湧いてくるものなんですからね。人から言われてからできるこっちゃなか。これはやむにやまれんもの、押さえようとして押さえる事のできないもの、というほどしのものが、私は修行精神だと思う。お便所のお掃除を一つさせて頂く修行でもです、もうお便所のお掃除をさせて頂いておるという事が、誰にも気が付かれない。
しかも一番汚いところを、それこそ丹念にお掃除でもさせて頂いておることの喜びがね、こういう風に感じられるほどしの修行をしておる時なら、まず間違いがない。先日その久富さんが、何かくじ引きを引かれたところが、商品にこうもり傘の賞品が当たった。こうやってするとばちっち開くとがあるでしょう。そういうその、まあ一番最新式の、その、こうもり傘がね、素晴らしいですね。ここではもう、あの傘のお知らせを頂いたり、傘を頂くという事は、もう安心のおかげと言われる。
どんな心配事があっても、傘のお知らせを頂いたら安心だと。しかもちょっとボタンいっちょ押しゃ、ぱあっと開くような傘のおかげを、頂いておると言う事は、いわゆる今の修行が楽しゅうなってきたと言われる、修行が有り難うなってきたと言われる、いわば久富さんに対する神様の、私もそれで安心した言うて下さる、印の様な感じがしますね。今日4時の御祈念すんでから、あのそしたらお供えを持ってみえた、あの御主人の方が。ついでにお野菜をこう持ってきた時に、あのこうもり傘があげちゃるです。
こりゃ何ですかっち言ったら、家内がそげなん風で当たったっじゃけんお供えして下さいっち言うてから言います。そりゃあんた、自分がささにゃいかんじゃないの、せっかく頂いた傘は自分が頂かなければね、私はそげん思うたですね。成程自分は安心がいかんから、神様が安心してくださる、安心でなからなければいけないちゅう事。成程お供えをされる気持ちが分からせて頂くような気がした。今日は大盛り台にお供えがしちゃったでしょうが、こうもり傘が。新しい。あれがそれなんです。
この前の久富さんところの宅祭りの時に、あの甘露飴を頂きましたね。紙でこう包んである、その甘露飴が右左にこうひねってある。飴がこうひねってある。だからちょっと引くとぱらっと中からそれこそ、宝石の玉にも似たような飴がころっと出てくるごたる仕掛けになっておる。こうして開いたら、引っ張ると中から飴が出てくるというわけなんです。右と願っても左左と願っても右というわけなんです。
けれどもその心の中にはね、それこそ甘露を感じるほどしの、甘い飴を、または、甘い露と書いてある甘露とは。これは信心の言葉で、もう信心させて頂く者には最高の喜びを、通うと表現する。いわゆる甘露の方を取る。それに浸りきらせて頂いておると言う事がですお願いをした、調子が良か時には有り難い有り難いと言うておるのは、だからそれはほんなもんじゃなか。右と願っても左、左と願っても右と言う様な時に御神意が分からせてもらい、神様の心の奥が分からせてもらい。
それこそ袖に涙のかかりよる時であっても、信心がないならそういう時に人の心の奥ぞ知らるると言う事になるのだけれど、信心を頂いておるとそれこそ、袖に涙のかかるような難儀な中ではあるけれども、神様の心の奥が分からせて頂いて有り難いと言う事になる。そういう心を甘露と言う。自分の心の中からです、どのような場合でもです、それこそ甘露飴のような甘い、有り難い、何とも言いようのない程しの信心の喜びを感じさせていただけるほどしの信心を頂けた時、私は神様が安心して下さると思う。
もちろん自分自身の心にも安心がいくる。今日丁度あの、久留米の野口つぁんのお姉さんにあたられる方のお立ち日であった。それで嫁御と二人で一生懸命その、おはぎやら、あの牡丹餅を作って、まあとにかく御霊様にお供えして、まお礼を申して頂こうというのである。人間の心の状態っていう物がね、いつもそげなん有り難いというばっかりではない。先日はもうほんのもうちょいした事でね、その嫁御と、いわゆる娘、達が今あそこに一緒におります。
その娘との間にそんな何にもないちょっとした事からね、何か気不味い事が起こった。野口さん帰ってこられた事が、その明子さんっち言います嫁がおらん。どこさん行っとるとじゃろうか(?)ござる。はあでもおりゃせん、行ってからもう考えこんでおる。そこでまあそれこそいつも娘たちでも嫁たちでも、合楽で頂いてくる御理解を、もうそれこそそのままに娘達にも聞かせると、いわゆるその非常に説得力が強いですねこの方は。ですからその有り難い事を話を思い出してからしようかと思ったばってんね。
こりゃあそげな事じゃあいかん、まずは自分の感情の中にですらほんなものじゃないのにね(?)なら、お説教どんしよったらろくな事はないと思って、まず合楽にお参りをさせて頂いた。バスを待っておる間に、またここにお参りをしてくる間に、もういろいろ有り難い事に直面した。有り難うして有り難うしてならんごつなった。いつじゃったか、親先生があげな御理解を説きよんなさったが、そういう事を思い出した。親先生はもう猫が大嫌いと言う事であったが。
あるいわゆる御不浄に立たれる時に、猫がその廊下の真中にこうやって、寝そべって長うなっておるね、それでまあ普通でいうなら私は猫は好かんのだけれども、こうやって蹴たぐってから行くとばってん、その日は何かねその猫が何かね、ひょっとしてこの猫がねあの亡くなった弟が戦死しとります。もしこれが亡くなった弟の、これがもし生まれ変わりでもあるならばと、ふとその思うたんですね瞬間。とてもとても私は蹴るというだんじゃなか。ほんなごつもぞもぞしてから通るごたる気が起こってきたんです。
不思議なもんですよね。うん自分の心の中に神心が湧いてくる。嫌いで嫌いでたまらんものがもぞもぞしようごとなってくる。「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う母かとぞ思う」と言われるね、山道を通っておったらほろっと山鳥が鳴いておる。ひょっとするとあれは、山鳥は自分の亡くなった父かもしれない、母かもしれないっちいう。何か自分が通っとるから自分の親が話しかけておるのかもしれないと。こりゃ仏教的な、いわゆる自分の(?)そう言う事になるのです。
そういう事をね、私共の心の中に静かに感じたんでしょう。もしこの猫が弟の生まれ変わりでもあるならばと思うたら、とても蹴たぐるだけじゃなか。それこそもぞもぞして通るごとある。それをねバスを待っておる間にはっと感づいた。そしたら隣に今日その、あのお礼を申しててくれという、自分のもう若くして亡くなられた、十いくつで亡くなられた、自分のお姉さんの事を思い出した。
そしたらほんにあの、姉さんな、背がこもうしてずんぐりとしてから色の白うしてから、うちいうなら嫁御によう似とるのに気が付いた。はあ本当は明子さんなうちの姉さんの生まれ変わりかもしれんと言う様な心が起きたところからね、もうどんこんこうこう合楽(?)却ってちぃっとこの頃、おめでたんごたる風で、あん食べ物をいろいろ言いおる。それで明太は好きじゃった、あの食るごたるとか、シャケが欲しいとかっち言う時に、それこそ一切れじゃあるばってん。
帰りには井筒屋に寄ってから、そんなものを買うてから帰らせて頂いた。そしたら嫁がもう、部屋から出てきた。もうまにこにことしとったとこう言われるのである。もう先生(?)たらね、もうそれこそもじょもじょしおるごとあったと言ってから、明くる日参って御届けがありました。あんたばっかりはね、そげな答えかけてどうすんの。親先生の御理解こげん(?)にそう言う事でと言うて、口でねいくら言うて聞かせてもだめだと言う。問題はね、本当に例えば嫁御ば心の底からもじょもじょしゅうごたる。
それが例えば自分に背いた時であってもそうしなければおられなしほどしの、嫌いなものでも、いわばもぞもぞするごたる気持ちが起きてくると言う様なです、状態な時でなからなければね、おかげ頂かれん。そういう状態が私は信心させて頂かなければ頂けない心だと思う。今日の御霊様はそう言う様な事です。それで姑御も一緒に、そのおはぎを作って、(?)ちょっとあんた達のおばさんになるが、もうあんたによう似てほんに、あのこうこうじゃったと言うて話なさったに違いない。
姑御も一生懸命でおはぎを作った。お供えをさせて頂いた。そしたら神様からね、丁度私だん、兵隊に一時行きましたが、もう行軍でへとへとになって疲れておる時にね、羊羹なんかが半分ずつぐらいわたる。それを食べると元気がつきおった。甘い物。今日の御霊様がねいうならば、きつい時今日の例えばね、姉さんというならそこに嫁御と二人で真心込めて作ったこのお供えのおはぎが、そのような意味合いで有り難いものとして受けられた。あらためて御霊様がいきいきとして。
みえられたという感じであったというてお話をしたことです。それといわゆるすれ違いにです、ある方が参ってきた。ああ娘が遠方に嫁にいってる。そこがその継母さんじゃったですね、そのご長男の嫁御にいっとるわけです。そりゃもう見るからにやっぱ私も会うたことがあるがですね、もう見るからに継母さんのごたる感じです。それがもう非常に野口さんに似ちゃるです。(?)ばっかしが(ままかかさん?)ごたるばってん、それけん私がその方に言いました。
あなた方はその娘(?)非常に似ちゃっとるげな。もうほんなこ(?)さんによう似ちゃるですねっち(?)ですもん。似ちゃる。ところがあちらが信心させていただかれるようになってから、あの根性で神様受けられたら、あのような素晴らしい風になっていきよんなさるね、あっちはまだ信心がないからそうでもあろうけれども、それがもう本当にえげつない事を最近は次々と言われてね、もうそれこそ泣きの涙の手紙を里にやってきた。そこで、主人と二人で話し合って、とにかく辛抱してくれと。
辛抱せろ辛抱せろと、と言うてまあやりましたというお届けであった。頂きなさいで今朝の御理解を頂いて貰ったら、今度は辛抱しただけじゃいかん、人間はこらえとるだけじゃいかん。それこそ嫌いなものでももぞもぞしゅうごたる気持ちにならなければおかげにならんのだ、信心ちゃあ。と言うて昨日の朝からずっと今朝から皆さんに聞いて頂いておるね、私が聞かせて頂いても、どうしたこっちゃかね信心があってそんな事言いおってのと、ちょっと私もたまがったっち私が言わなんごたるお届けであった。
けれどもね、それを聞き終わってしもうてからです、それを私が同情してそこだけ自分も、本当にもうはがゆい、情けない事であると思うて、と言うて涙を流して話されるわけなんです。私もやはりほんなこつ腹の立つの、お願いして信心がなかならばってんと言うごたるお届けであった。けれども○○さんそれがほんなら今朝の御理解で頂く、肉眼をおいて神眼を開かせてもらう、肉眼の世界から心眼の世界に移らせて頂いたらね、しかしその事はね、その人もこの人もみんなあなたばね。
磨いてやりたいっていうか、あなたにおかげをやりたいっていう神様の御演出であり、それは、むしろあんたお礼を申し上げにゃならん事だと言う言を、私が話しましたらですね、もう本当にもう日頃頂いておるのですからね、はあほんなこつそうじゃったとはがいいことでもない、情けない事でもない、私のためにあの人達が使われてござったと分かった時に、あの人たちの事がもう有り難うして有り難うして応えじゃった。その翌日その人達と会うた。
会うた時にはもうこの人に対する感情というものが、もう昨日と今日というたらもうぜんぜん違ってしもとった。と言うて今日改めてまたお届けがありましたね、だからまさしくその人達はです、えげつない事を言うたりしたりしてはおるけれどもです、それはその人を育てて下さる為の御神意であったということが分かったね。それからその今言う、娘継母さんのとこにやっとるその、おっかさんが出てきてから言わっしゃるとですたい。本当、私達がね。
御用を頂いて、御信心を頂いておるとじゃけん、娘の通られるところのお母さんでも、ね。信心にならにゃんように、ただ娘が辛抱せろ辛抱せろと言わっしゃることじゃなくて、そこを有り難う頂かせてもらえる道を教えてやんなさい、今日の御理解を書き写して娘に送ってやろう。そうしていく内に、おっかさんの方が信心になりなさるようなきっかけができん事があるまいと言うて今日は帰られましたね、だからね辛抱しておると言った様な事ではないと言う事が分かるですね。
そう言う様な、全ての事がそういう頂き方なんです。この肉眼で見りゃあ、情けない事なんだけれど、心根をもってすると、これは御礼を申し上げねばならん事が分かるというところまでお互いが信心させて頂く所からです、生まれてくる喜びが、いわゆる神の願いではなかろうか。そういう心を使わせて頂く事が出来る様になる時にです、神様は安心して下さるのではなかろうか。その安心がまたこちらに響き返ってくるような安心のおかげという事になってくるのである。
親先生がござるから、若先生がござるから、今親先生がころっと逝きなさったっちゃ、僕だんショックを感じない、なら若先生がついで、私が早う死ぬか分からんね、だからそれだけの物がです、ある間に、本当の安心を頂かせてもらう信心をしておかなければいけんじゃないかと言う事なんです。お参りをするお願いをする、平穏無事でおかげを頂いておる、もう安心しとります。これはあまりもの安心なのです。私共が修行は申し一生が修行とおっしゃる。
その修行の心がいきいきと、修行精神を躍動しておる時ならば、まず神様が安心。しかも今日私がずっと申してまいりましたような頂き方のできれる、またそれが本当であると分からせてもらうところの信心を身に着けた時こそです、私は安心のおかげという事ができるじゃないかね、いわゆる神様が安心してくださるところのおかげである。
どうぞ。
神様に安心していただけれる氏子にお取立て頂かせてもらう。おかげを頂かせてもろうたらね、有り難い。そこにいわば厳しい信心修行と言う言があるわけです。けれどもその信心修行というものがもう有り難い物、こんな楽しいものになってくる、信心修行とは。そこんところに、信心修行の素晴らしさがあると思うのでございます。どうぞ信心生活、信心させていただく者の生活というのは、心の中にいつも安心がいただけておるという生活。そういう生活を目指す事だと。
なら親先生がござるから、いよいよの時にはです、お願いをすればいいと、だから安心しとりますという安心では、それはまだ本当の安心ではない。そこから、自分自身の心の中から、右と願っても左といったような場合でも、ちょっと金光様と(引っ張る中から?)神が転げ落ちるほどしのおかげを頂かせてもらい、そういう心の状態を願わせていただいての信心指針を果たさなければならんと思うですね。